2020 10.13

#13

SOLID MAGOME 発色に秘められたものづくりのストーリー

建築や空間デザインは、様々な人との関わりからなり、その思いが作り上げた「もの」の積み重さなりによって構成されいます。
人の作りあげた「もの」には必ずストーリーがあります。
KA&Aで設計したプロジェクトのもつ、様々なストーリーをご紹介していきたいと思います。

SOLID MAGOME

2020年6月、大田区中馬込に、新築賃貸住宅が竣工しました。

計画地のすぐ脇には新幹線や横須賀線、国道が通る場所になっていますが、少し裏に入っている事で喧騒感はなく、高台にあるため見晴らしのいい敷地になります。
元々馬込は文士村と呼ばれ、文豪たちが住んでいた事もあり、どこか懐かしさの残る場所。
建物はできる限りソリッドな形状にまとめ、日影規制などから削り取られた部分は外壁の色を変えて、別のボリュームに見えるようにする事で、モダンですっきりとした印象にデザインしています。
基準階は単身者用の住戸で構成されているが、上層階はDINKSをターゲットとした広めの部屋になっており、ルーフバルコニーが充実し、近くを走る新幹線はもちろん、天気が良ければ富士山まで望むことができます。

今回、この賃貸物件を設計するにあたり使用した、1Fエントランスホールの深いグレーの色。
そして、そのグレーの壁面に映える、アートパネルの鮮やかな青。

1F エントランス、6-7F ペントハウス KEIMシリケート塗料「コンクレタール」
1F エントランス 高岡銅器の伝統発色による「モメンタムファクトリーOrii」アートパネル

前者は18世紀ドイツから生まれた塗料で、後者は日本の北陸で受け継がれる伝統工芸の技。
この二つの色をつくりあげた、ものづくりのストーリーをご紹介します。

KEIM 外壁塗料について

今回、私たちが建物のエントランスとペントハウス部分の塗料に使用したのは、ドイツ製のシリケート塗料「KEIM」のコンクレタールです。
この計画のために、特別にドイツで調色してもらい、希望通りの色味を表現して頂きました。

KEIM塗料の歴史は古く、南ドイツ、バイエルン国王のルードヴィヒ1世がイタリアのフレスコ画に魅せられ、化学者のカイムに塗料の研究をさせたことに始まります。
フレスコ画とは、壁に直接絵を描く技法の1つで、生乾きの壁に顔料を水で溶いて絵を描き、壁の乾燥によって定着させるもの。当時バイエルンは工業地帯でスモッグが多く、また、イタリアよりもより湿潤な気候のため絵の劣化が早く、より耐久性の高い塗料が必要とされました。

この時、カイムが目をつけたのは、それより100年ほど前に、文豪のゲーテが研究をしていた「水ガラス」です。当時、錬金術の材料と知られていたものの有効活用には至っていませんでした。
カイムは10年以上研究を重ね、ようやく「水ガラス」を使った塗料の開発に成功し、1878年に最初のシリケート塗料を完成させました。

  • ルードヴィヒ1世の孫のルードヴィヒ2世が建てたノイシュバンシュタイン城 KEIMの開発した塗料が使用された

  • 建築における色彩を重要視したコルビジェの開発したカラーパレット63色に基づき、KEIM社は塗料の開発を行った「polyChro」

巨匠の愛したコンクリート塗料

日本とヨーロッパでは塗料の文化が違います。日本は地震による災害が多いため、木の文化が発達し、ヨーロッパは古くから石の文化が栄え、塗料の研究も発達したと言えます。

通常、日本で多く用いられる一般塗料は、時間が経って溶剤が固まることで「塗膜」が出来上がります。壁面に、文字通り、「塗っている」状態。
この塗膜は、経年により次第に脆く、色も黒くなり、定期的にメンテナンスをしなければ建物の劣化が目立ってしまう状態となります。
一方、このコンクレタールは、溶剤を使わない有害物質0の天然物質が、コンクリート・モルタル・漆喰・天然石・石膏といったものに塗装を行うことで塗膜ではなく、浸透していき、2週間かけて化学反応が進み、素材の中で一体になります。
つまり、「塗る行為を行い、染めることができる」のが大きな特徴です。

一旦染まった塗料は、下地として表面を保護。「100年塗料」と呼ばれるほど、耐久性・持続性に長け、建物の色合いの美しさを保ちます。

窪田は今回、このシリケート塗料コンクレタール使用について、
「コンクリートに色を付けるのに、塗装とは違い、染色する事で耐久性が上がり、変色が無いという事が大きな決め手となった。コンクリートの表情もそのまま表現でき、コスト的にも使いやすい。」
ということで採用しました。

歴史的建造物ではノイシュバンシュタイン城、近代建築物では、海沿いに立つシドニーのオペラハウスや、シンガポールのマリーナベイサンズなど、国の象徴となるべき建築物に使われているのは、海岸沿いにあっても潮の被害などからも影響を受けることなく、建物が美しく発色し続けられるからです。

ゲーテという文豪の研究から始まり、コルビジュエ、グロピウス、タウトなど近代建築の巨匠はじめ、ザハ・ハディドも好んで使用した塗料。
多くの巨匠たちに愛された塗料は、今なお褪せずに街を彩る景観の一つとして人々の生活の中にあります。

(取り扱い:SKWイーストアジア株式会社

モメンタムファクトリーorii 高岡銅器の伝統工芸を受け継ぐ発色

 エントランス入ってすぐのアートパネル。鮮やかな水色の発色とそれを引き立たせる褐色の銅の色。これは、高岡銅器の伝統工芸を受け継ぐ「モメンタムファクトリーorii」の折井宏司さんに作って頂いた作品です。
美しい青い発色は「オリイブルー」と呼ばれ、折井さんにしか作り出せない色合い。全国から注目され、多くのファンを集めています。

褐色に映える青に勢いがあり、まるで葛飾北斎の富嶽百景に出てくる海のような水飛沫にも感じられ、まるで絵画のような印象を受けます。
これは金属素材を腐食させて、独特の風合いを生み出す伝統工芸の技。金属を硫酸銅と炭酸銅の混合液で煮込み、焼成や磨きと行った加工でつくり上げられました。

今回は、折井さんにインタビューをさせて頂き、高岡の伝統工芸のお話、そして折井さんが辿ったものづくりのお話を伺いました。

折井さんは、高岡銅器の「着色」を行う「折井着色所」の3代目、伝統工芸士。
折井さんは一旦は東京で就職しましたが、数年後、家業を継ぐために高岡に戻り、平成20年に「モメンタムファクトリーOrii」をスタートさせました。伝統工芸の技を用いながら現在に通用するものづくりに革新させ、
多くの建築家・インテリアデザイナーにその技術が買われ、5つ星ホテルや商業施設、住宅などで採用されています。

弊社でも、2018年、横須賀の秋谷に竣工したマンションのエントランスにも折井さんにアートを作成して頂きました。

現在、折井さんのところには建築資材・看板の注文が売り上げの60%を占めると言います。その他は、時計や照明などのプロダクトで30%、そして、創業当時から続ける伝統工芸については10%となっているということです。生活様式が変化してしまったため、仏具や美術品にお金をかける文化が失われつつある今、25年前と比べると業界全体の需要が4分の1にまで落ち込んでしまったという背景があると言います。

  • 2018年竣工(KA&Aデザイン監修)DUO HILLS AKIYA

伝統工芸の町、高岡

高岡のものづくりは約400年前に始まります。加賀百万石を築き、繁栄とものづくりをもたらした前田利長がこの地に高岡城を築き、開町しました。
父は、秀吉とも親交が深かった織田信長の家臣、前田利家。その後、利長の代においては、豊臣秀吉から徳川家康に天下の覇者が変わる頃、激変する時代において加賀・越中・能登の3カ国合わせて122万5千石となり、外様最大の藩「加賀百万石」をつくりあげました。
利長は、江戸幕府が開かれ、戦乱の世に落ち着きが見えた頃、家督を前田利常に譲ると富山城に隠居し、息子を見守っていました。しかし、富山城が火事により焼失したため、高岡に城を築いたのがこの街の始まりです。
利長はこの街の産業政策の一環として、7人の鋳物師を招き、5軒の工場をつくったと言います。これが今にその技術を綿々と受け継ぐ、高岡銅器の始まりとなりました。

折井さんの実家である「折井着色所」は、祖父の代から、神社仏閣に納める銅像や、また高岡銅器の美術品に着色することを生業としていました。
高岡は分業が進んでいる場所。一つの工場で、鋳物の工程を全て行い完成させる自社完結とは違い、それぞれの行程だけを行うというのが高岡のスタイル。その徹底した分業化により大量生産を可能にし、高岡は銅器の生産が国内の90%をシェアしてきたのです。
折井さんが高岡に戻った頃は、丁度バブルが弾けて数年経った頃。東京から離れた高岡は、バブルの弾けたその2−3年後に非常な打撃を受けることになりました。

  • 折井着色所で着色した鳥取県にある水木しげるの像

  • 鳥取県の境港にある水木しげるロードにはいくつもの妖怪の銅像があり、折井さんのところでは、このような銅像の着色を伝統工芸として請け負う。

新しい発色技法の挑戦

折井さんは高岡に戻ると、実家で着色の修行を始めますが、仕事がないと腕をあげていくことができない。分業されているが故に、来た仕事を行っていくことで手を動かしていくことになる。仕事がなければ手も動かせられない状態でした。
そこで、時間ができた折井さんは、鋳物の全行程を学ぶために勉強会に参加するようになりました。そこで学んだのは商品を作り出すことの大変さ。
折井さんはそこで原点に戻り、「色屋さんだから色を出す板でやろう」ということに行き着きます。そこで目をつけたのは、鋳物ではなく、より安価な銅板でした。通常のやり方だと、薄い銅板では鋳物と同じように発色させていくことが難しい作業を、なんとか成功させることができないかと研究を始めるようになりました。
「鋳物の伝統を守る高岡で、銅板に目をつけるなんて、誰もしていないことをやってみようと思えたのは、自分が家業を継がず、一旦は東京に出て、伝統工芸にかぶれなかったからこそ出来たものだと思います。そのまま家業を継いでいたら、邪道なことはできなかった。」
まさに伝統から生まれた、革新がここに始まりました。
「ただ、良い色を出せても、知識がないから偶然だせた色を再び出すこともできないんです。」折井さんはそこから重ねて実験を行い、ようやく自身の色を表現する力を手に入れました。

伝統と革新への思い

時代が進むにつれて、新しい生活様式となると、それまで重宝されていた壺や美術品などは
人々から求められないようになってしまいました。
それを受け止めた上で、伝統も時代と共に変わっていく必要があると、折井さんは言います。

「伝統は守っていかないといけないですが、それだけに固執していたら後世に残らないと思っています。
少しずつ変わりながら新しい伝統を作っていくことが必要です。
僕が始めたことはまだ始めて10年くらいのものですが、自分が死んだ後、30年40年して高岡に来た人がこの壁面を見て、
これが高岡なんだと思ってもらえるようになっていたら嬉しいです。」

工場見学も行なっており、ここ10年ほどで県外から訪れる人の数も増えて来たという。
折井さんに、伝統工芸を残していくには何が必要か聞いてみました。
「まず、ファンを増やしていくことです。やってみたいと若い人たちに思わせることが必要です。
そのためには現代的なことに進出しつつ、伝統工芸の古いものも続けていく。
そうしなければ、古いものだけでは、職人たちが食べていけないというのが現状です。
新しいジャンルを開拓しつつ、古いものを残していくことを続けていく必要があります。」

身近にあるものも、普段私たちが知らないだけで、そこにはそのものが生まれるストーリーが必ずあります。

建築とは街に誇りをつくるもの。人々の思いがこもった誇りあるものを建築の中に取り入れることで、目には見えない「心地よさ」を与えてくれる。
馬込に新しくできたこの住宅が、今後永く愛される生活の場となることを祈っております。

(取材協力:モメンタムファクトリー・Orii

  • 折井さんの身の回りからは、自社の様々な小物が出てくる。

  • 折井宏司さんと弊社代表の窪田茂。実は同年代

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